2016年10月28日金曜日

イスラーム主義活道家

日本においてイスラームという宗教はまだまだ未知な部分が多い。

たとえばキリスト教について殆どの人は(キリスト教の)聖書を読めばその大要が分かると思う人は多いかもしれない。

ところが聖書に書いてある「イエスの愛についての教え」と、実際に出会うクリスチャンが全くそんなでないと、どっちを規準にキリスト教を理解するかと云うと・・・やはり「聖書」の規準でしょうね。

その結果「誰々さんはクリスチャンとか言ってるけど、まったくらしくない・・・」とか言うようなことになりかねない。

でも実際にクリスチャンだと自称する人たちの言動や生活から「あー、クリスチャンとはこう言う人たちなんだ」とキリスト教を理解することも十分ありだと思います。


「キリスト教」とか「イスラーム教」とかという《アイデア・理念上の産物》と、それを奉ずる人々の多様なあり方の間のある意味「不一致(discrepancy)」現象は、世界が多文化共生社会になってきてより実際的に悩ましい問題になってきたように思います。


先日(2016年10月21日)、朝日新聞が朝刊で「イスラムと欧米」というインタヴュー記事を掲載しました。

  (※記事についてはもちろん朝日デジタルで読めますが、自分のブログに全文掲載している方もいます。)

インタヴューの相手はタリク・ラマダンさんという「イスラム思想家」です。

聞き手は朝日のGLOBE編集長の国末憲人さん。

ラマダン氏はムスリムが欧米市民社会の一員としてもっと対等の意識で「相互をリスペクトする」必要があり、そのためには「寛容を受ける対象」としてではなく、もっと「ムスリムとしてのアイデンティティー」を主張することが必要だ、との持論のようです。

その一つの例として「ブルキニ」問題が取り上げられたのですが、以下のような応答になっています。
 「これは、アイデンティティーの摩擦ではなく、ムスリムが存在感を示してきたことの証左にすぎません。彼らの存在が可視化され、『我ここにあり』と主張できるようになった。失敗の印でなく、逆にムスリムが欧州社会に溶け込み、成功した証しです」
 ――欧州社会、特にフランスでは、多くのムスリムが世俗的な生活になじんでいます。イスラム教のアイデンティティーを保て、とのあなたの呼びかけは、宗教回帰を目指す試みになりませんか。
 「違います。ムスリムがムスリムであり続けよ、といっているだけです。彼らがイスラム教から離れることを望む人が『イスラム回帰だ』と騒いでいるだけではないでしょうか」

このインタヴュー対して、国末編集長はこちらでも紹介した東大のイスラーム学者・池内恵教授にに「セカンド・オピニオン」を求めています。

そこで彼はブルキニ問題に関してこんなことを言っています。
 ブルキニ問題も、単に服装の自由とのみ見るべきではありません。背景にあるのは「男性は身内の女性を所有し、保護する義務と同時に監督・支配する権利を持つ」というイスラム社会に根強い発想です。イスラム教のもとで、女性と男性は、平等ではありません。ブルキニを着る「自由」は、西欧社会にイスラム的な男女・家族関係を持ち込みます。
 その点をムスリムに指摘すると「イスラムへの差別だ」と反論します。でも、ムスリムとイスラム教をすり替えてはなりません。近代的な人権規範の下では、人としてのムスリム差別は許されませんが、イスラム教の宗教規範を批判する権利は認められるべきです。

この指摘については「なるほど」と思いました。

ライシテとブルキニでも「リベラルな視点」から見る「ブルキニ問題」を取り上げたのですが、「(他)宗教への寛容」として見た場合、「ブルキニを着る自由」は守られるべきであり、ブルキニ着用禁止は「自由への侵害」だ、となります。

欧米の価値観から見たときに「ブルキニ着用の自由」の問題に見えるが、イスラムの価値観から見たときに「ブルキニ着用は女性差別の保護」になる、と云うねじれ構造になるのでしょうね。

なかなか単純ではない。複眼的に捉える必要があることを池内教授の「セカンド・オピニオン」は示していると思います。


欧米社会で「マイノリティー」であるムスリムの自由や権利を擁護すること(欧米のリベラル派が一生懸命になる傾向)と、そのマイノリティー社会の中での女性や少数者の権利を擁護すること(人権活動家たちが一生懸命になること)とを区別して考える必要があることを示したのが以下のオックスフォード大でのディベートです。

左側がラマダン氏で、右側がイラン出身の「前ムスリム」でイスラム社会での少数者の言論の自由抑圧を訴えるマルヤム・ナマージー氏です。