2015年11月27日金曜日

市民宗教から公共宗教へ

まがりなりにも「市民宗教」という概念を用いて「アメリカと日本の市民宗教比較」を博士論文のテーマにした(プロスペクタスを書くまでで頓挫したが)者として、

藤本龍児
『アメリカの公共宗教:多元社会における精神性』 
(NTT出版、2009年)

は歓迎である。

※藤本氏の博士論文の方は、「市民宗教」が目指す、社会哲学的議論を中心にしたもので(それがべラーが狙っていたものであったが)筆者がやろうとしたものとは少し狙いが異なるが・・・。 

藤本氏の本は主にアメリカにおける政教関係の制度的発展に伴って「どのように宗教と政治社会が関わってきたか」 を概観しながら「公共宗教」のありうべき形態を模索したものだと思う。

今年フランスで2度大きなテロ事件があったが、グローバル社会の枠組み作りで課題となっている、公共(市民社会)形成における宗教の問題を突きつけられるにつけ、これがまさに喫緊の課題となっていることを思わされる。

藤本氏は、たとえば、「近代主義」と「原理主義」との対立を次のようにまとめている。

 目的のレベルとは、ありうべき理想像、目指すべき世界像のことを指す。その理想的世界像において、近代主義者と原理主義者の世界観は、鋭く対立している。近代主義者は「宗教を排除した理想的世界像」を描くが、それに対して原理主義者は「宗教を前提とした理想的世界像」を描く。言い換えれば、近代主義者が、あくまでも<世俗内の原理>に基づいて公的領域を組織しようとするのに対して、原理主義者は、どこまでも<世俗外の原理>に基づいて公的領域を形成しようとするのである。これが、近代主義と原理主義の根本的な対立である。
 しかし、あらためて考えてみたい。確かに、両者の目的とする理想的世界像は鋭く対立しているのであるが、それにもかかわらず、近代主義者も原理主義者も、目指すべき世界像をもって、そこに進んでいこうとする意識をもっている点では変わらない。そうした意味で両者は同じ根をもっているのである。とすれば、両者は、進歩史観や進歩思想を共有しているとは言えないか。なぜなら、進歩史観とは「歴史は理想的世界に向かって進んでいくものだ」と考える歴史観であるし、進歩思想とは「その理想的世界を実現すべく主体的に社会や政治にかかわっていこうとする意識や観念体系」のことだからである。であるならば、終末論に基づいて千年王国という理想的世界像へ向かう志向性をもっている点では、原理主義も進歩思想に通じていると考えられるのである。[175](120ページ)
[175] 厳密には、千年王国説には「前千年王国説」と「後千年王国説」があり、後者が進歩思想に親和的であると考えられる。原理主義は、神学のうえでは「前千年王国説」に立っているが、実際には「後千年王国説」に近い行動をとる。この区別については、第五章を参照。
文化多元主義多文化主義の区別については、文化多元主義を次のようにまとめている。
 まず「民族性」は、他者や他の文化からの干渉をまぬがれる事柄であるとし、それを「私的領域」に位置づけた。次に「国民性」は、他者や他の文化との交渉によって形成されたり維持されたりする事柄であるとし、それを「公的領域」に位置づけた。このように「私的領域」においてエスニック文化の多様性を承認しながら、同時に「公的領域」において共通性を確保したのである。こうした思想が、文化多元主義にほかならない。[278](190-1ページ)
そして多文化主義の課題を次のようにまとめている。
多文化主義の要求には、大別して「差別の是正」と「差異の承認」という二つの要求があった。「差異の承認」を強調して、単一の文化に固執するアフリカ中心主義のような多文化主義の形態は、排他的な自文化中心主義に陥ったり、連帯意識を阻害するという意味での「分裂」や「争いの場」を招いたりしかねない。また、分裂の危機を回避すべく、もう一度アングロ・サクソン文化を中心にアメリカを統合しようとする保守的な解決策は、多文化主義の「差別の是正」という要求に抵触する部分が大きい。そして、普遍性や中立性を掲げるリベラリズムの理論は、「差別の是正」の要求にたいしては有効でありながら、「差異の承認」の要求にたいしては実質的に対応することが難しいのである。したがって、自文化中心主義者にせよ、保守派にせよ、そしてリベラリズムにせよ、いずれも多元社会を成立させるための理論を提供できていない、ということなのである。(196-7ページ)

そして多文化主義下での公共宗教の役割を次のように定義している。
公共宗教は、多文化主義が求める「差異の承認」に応えるべく「同一化の暴力」のみならず「普遍化の暴力」にも対抗し、その中間にある「多元化」を模索するものにほかならない。(209ページ)
一度ざっと読んだだけなので果たしてちゃんと議論を理解しているかどうか心配だが、最初の引用で(オレンジ色で)強調した部分を、今日のISISのような原理主義を念頭に吟味すると「進歩思想という次元での近代主義との類似」は大いに疑問と思わざるを得ない。

もちろん「イスラム国」のような存在を「例外」として排除するならば別だが・・・。
しかしその場合でも、一定の「共存関係」を構築する道を模索しなければならないのではないか。

2015年11月24日火曜日

アメリカ市民宗教と福音派:新刊紹介

殆どの西側先進諸国では「国家」と「教会」、「政治」と「宗教」が区別され分離されている。

とはいえ実際の政治社会では、その区別が判然としなくなるほどそれら二つの領域や概念が重なり合うことになる。

特に政治の領域において何かしらの「宗教」の役割(少し悪く言えば効能というか利用価値)が問われるし、実際アメリカのような国では伝統的にキリスト教を背景とした象徴的なフレーズや所作が公然と示威されることがある。

特に、社会学者ロバート・ベラー(1927-2013)の『アメリカ市民宗教』論文(1967年)で、一躍この「政治の次元における『公共宗教』」がクローズアップされることになった。

爾来『市民宗教(civil religion)』という視点は、アメリカの政治と宗教の重なる歴史的事象に関する様々な議論や分析に登場してきた。

つい最近出版された

John D. Wilsey. American Exceptionalism and Civil Religion: Reassessing the History of an Idea. Downers Grove, IL: IVP Academic, 2015. 263 pp. $22.00.



は、いわゆる「福音派」と呼ばれる神学校の歴史学教授が著したこのテーマに関する分析である。

その福音派にあって、どちらかというとより保守的なグループの論壇を形成する「ゴスペル・コーリション」で書評が出ているので紹介する。

The False Gospel of American Exceptionalism 

書評者はアメリカキリスト教史が専門と見られるネイサン・フィンだ。

福音派は概ねアメリカ国家とキリスト教の歴史的重なりを摂理的に受け入れ、国家支持とキリスト教信仰が「融合している」感覚で政治にコミットしやすい傾向を持っている。

しかし、いやそれだからこそ「アメリカ国家を特別視する」本の題名に用いられている「アメリカン・イクセプショナリズム」の問題に警戒が必要だと自覚を促しているようだ。

書評者によると、アメリカの福音派は今後、進歩派の社会正義に対する関心や、彼らの政治理念のベースとなる「現実主義」の要素も取り入れるべきではないか、と著者のウィルシーが提案しているように思われるという。

そうだとすると、この本の提案は福音派読者に「リベラル政治」から「無神論」へ滑り落ちて行く危険はないだろうか、という反感を抱かせないとも限らない、と分析している。
At times, it almost seems as if Wilsey is suggesting that the way forward for evangelical conservatives, at least on this issue, is to embrace some of the realism of progressives when it comes to America’s track record in matters of public justice. If I’m reading Wilsey correctly, then I expect his approach will ruffle the feathers of many evangelicals who tend to be partisan Republicans who at least imply there is a slippery slope from progressive politics to outright atheism.

2015年11月9日月曜日

辺境にある宗教:日猶同祖論

昨日、立教大学であった(立教大学日本学研究所主催の)公開シンポジウム『近代日本の偽史伝説~その生成・機能・受容~』というのに行ってきた。


といっても、そのうちの一つ「日猶同祖論―旧約預言から『ダ・ヴィンチ・コード』まで―」だけなのですが・・・。

まあタイトルの三つの要素がそれぞれ関わりがあるといってもいいのですが、どれも少しだけといった方がいいでしょう。


最初に会場である「会議室」に入ったときの印象から。

10分ほど遅れて入室したので気後れはあったのですが、満員であったことと、集まっている人たちの着ているものの色を全体で感じると「濃いグレー」であったことと、(こう言うのはどうなのかと思いますが)オタクっぽい雰囲気であったこと、に気押されしました。

満員・・・
 については、ある程度は予想していたのですが、しかし改めて目撃して驚きとともに思うのですが、単に「宗教学のテーマ」であっても、ものによっては結構注目を集めることはできると思います。
 しかしこのような(サブカル的)テーマこそ関心のある人を惹きつけるのかな、と感じましたね。

オタクっぽい雰囲気・・・
 いわゆる都市伝説とか、周辺的な場所で流布する言説、正面きってのアカデミックな追跡に馴染まない混沌感のあるテーマに萌を感じる人たちが結構集まっている印象でしたね。(それが偏見でしょうが身に纏っているものの色からインプットしてしまったのですが・・・。)

発表した津城寛文(つしろ・ひろふみ)氏は筑波大教授で、講義テーマや著者名から「現代日本の宗教性、スピリチュアリティ」を研究されているみたいですね。
紹介にもありますが、「宗教学、宗教社会学」の方面ということのようです。


『日猶同祖論』を本格的に意識したことはまだないのですが、小嶋の属する「日本聖泉基督教会連合」は戦前中田重治が始めたホーリネス運動と関係があり、その歴史の中で「ユダヤ問題」を通して間接的に『日猶同祖論』と関わりがあります。
(その断片をこの記事に紹介しました。)

一番後ろの席で、少し聞こえにくい面もあったので、内容についての紹介や評はとても無理だが、中で印象に残ったことを一つだけ。

おうおうにして一部の(こう言う表現は使っていなかったが)ゲテモノ・キワモノに反応する人たちのファンタジーや妄想を刺激して市場が形成され情報流通がなされるわけだが、そこで生成される「陰謀論や終末論」はアカデミックな取り扱いが難しいため無視されやすい。

しかし、「現実社会に表面化する」ときに、時にオウム真理教事件のように社会的に破壊的インパクトを与えることもある。研究者は無視すべきではない。

といったメッセージが伝わってきた。