2014年9月11日木曜日

お詫びとお知らせ

(ごく少数の選ばれた)読者の皆様

関心を維持して、時々来訪されていることを感謝します。

6月以降更新がありませんでした。

夏休みの間に休みと夏バテとで更新が滞ってしまいました。

また今年春から一応やろうかなと思っていた共同学習会も夏休み以降に延期して・・・と思っていたところがこれもままならず、無期限延期としておく状態です。

アドバルーンは掲げたが「商品が店頭に並ばない」状態ですいません。


一応共同学習会への勧誘1でご紹介した
(2)宗教の「今」
    現代の文脈で捉える「宗教」の問題やありよう。
    もちろん日本を中心に概観していくことになる。
    ・現代(日本)社会に「宗教」はどのような役割を果たしているのか。
    ・あるいは上手くマッチングできずに現代社会から取り残されていないか。
が少なくとも今年に限っては「お流れ」になりましたので、お詫びと共にその会でテキスト使用予定だった本を紹介することにします。



毎年出ているシリーズ物ですが、あえて2013年を選んだのは、キリスト新聞社「ミニストリー」誌編集長、松谷信司が取り上げられているからでもありました。

出来たら松谷さんを招いてトークでもしてもらえたらな・・・などと妄想していました。
その他にも何人か知人や知人の知人が取り上げられていました。

 と言うわけで、「お詫び」と捲土重来を期しての「お知らせ」でした。

2014年6月30日月曜日

世界の宗教 知っ得 2

 シリーズ名は「世界の宗教」ですが、現時点では身の周りの人から聞き集めたエピソードを紹介しているだけです。

 まだ「宗教と社会」の簡単イントロ段階なので、なるべく難しい話は避けるように努力しています。

 で、今日は多分「神道」と言うことになると思います。

 のっけから「えっ、神道って『世界宗教』なの?」と驚かれそうですが、上記の話の運びでそうなっているまでです。



 ある方から聞いた話です。

 小さな会社なのだそうですが、立ち上げに当たって近くの神社にお参りする、と言うことになったそうです。

 その方はキリスト者なので「自分はキリスト者だから遠慮したいのだが・・・」と暗に断ろうとしたら、社長と言うかボスが「これは宗教じゃない。会社のためなのだから。」と半ば強制される感じがしたそうです。

 良く聞く話ですよね。要するに会社でも、何でも一つの集団がまとまって行動する時の「(お参りと言う)儀式」のことです。

 「宗教ではない。習俗だ。」と説明されたりもします。確かに使われ方はそうです。

 よくプロ野球チームの春季キャンプが始まると、たいてい先ず近くの神社にチーム全員でお参りします。
 そんな時思うのです。チームの中には宗教的背景では色々な選手(スタッフもか)いるだろうに、どうしているのだろうと。


 と言うわけで、改めて「神道」と言う問題を考えてみると、なかなか「宗教」と言う自覚がなさそうなのですね。まして「世界宗教」などと言うことになるとなおさらです。

 「神道」と言うと何か「体系的」なものをイメージしますが、むしろ神社やその境内を先にイメージした方が分かりやすいのではないでしょうか。

 とにかく区別と言うことでは「参道」や「鳥居」や、と「聖なる空間・御神体の祀られている場所」への物理的アプローチはうまく出来ています。

 そしてその過程での様々な儀式的所作があります。

 そんなに考えることもない。むしろ感ずるのが中心。


 試しに東京のど真ん中、明治神宮英語HPを見てみました。

 御神体は明治天皇と昭憲皇后になっております。

 どういう意味でdeitiesなのかは説明されていませんので、人間が死後「神」に祀られる習慣のない文明圏ではなかなか理解されないのではないでしょうか。


 さて「神道」とは、日本至る所にある神社とそこに祀られている神々の総体であるとすると、何か「宗教学的分類」上ややこしい面があると思うのです。

 ごく初歩的な感想で言うと、「神道」で一括りにされる「一つの宗教」と分類されるべきものなのか、それとも祀られた個々の神を単位に「一つの宗教」と分類されるべきものなのか、と言うことです。

 さらにごく簡単に日本におけるこのような「神の祀られ方」を振り返ってみる時、本来であれば「氏神」間での区別や対抗があってもおかしくなかったのが、次第に日本が国家として統合されていく過程で、「氏神」たちも階層的に整理され、靖国神社をトップにした明治期の「国家神道」体制に整備されていった、と言うことのようです。

 と言うことは、
神道とは、国家統合(最初のエピソードにあげた集団統合)機能が優先されたものであり、個々の神社の御神体への信仰はこの機能が確保されたもとであるなら「自由に」発揮できる(それゆえ余り拘束力のない緩い)信仰体系なのだ。
と言うことでしょうか。少なくとも近代史においては。

 日本において多くの人が「無宗教」を選択する背景には、緩い「宗教」としての神道が一つあるのではないでしょうか。

 そして会社のボスが「宗教ではない」神社へのお参りを所属メンバーに半ば強制的に求めることが出来るのも、個人的信仰対象としてではなく、あくまでも「集団統合」として神社参拝を考えるからなのでしょう。

 宗教とは、「信仰の論理」は個人ですが、「統合の論理」では集団であり、ともに「宗教的機能」には違いないですが後者は「宗教」とは認識されず、しばしば「習俗」だと看做されるのですね。

 首相の靖国神社参拝説明は、この宗教論理(「信仰=個人」対「統合=社会集団)の錯綜を用いたレトリックになりやすい、と言えば当たらずと言えども遠からず、でしょうか・・・。

2014年5月28日水曜日

ダイアリー 2014/5/28

もうちょっとまとまった形で情報提供できたらよいのですが、現状では余力がなく思いつくままに、と言うことで「ダイアリー」形式を取っています。

《世俗化》

「ダイアリー 2014/5/24」でユルゲン・ハーバーマスを紹介しました。

一旦は「世俗化が完了した近代国家・社会の枠組み」で宗教を計算外にしていたハーバーマスが、近年(1985年くらいを境に)意欲的に「宗教を現代社会理論と政治の舞台での役者としている」かを示すのが、ポスト世俗化時代の哲学と宗教ですね。
前教皇ベネディクト一六世との討論です。

欧米圏における、18世紀啓蒙主義以降の「世俗化」とは、政治を含めた社会における「教会」の権威の縮小(市民社会及び個人の教会的権威からの自立)であり、政教分離を通して宗教が相対的に影響力を失い、その感化の範囲も「個人の内心」に限定されてくる過程を指します。

この歴史過程をある程度決定論的に見る人たちが考える「世俗化」とは、即ち科学思考が浸透すればやがて宗教は必要なくなり消滅する、と言う見方でした。

このような欧米知識人の間で支配的な「世俗化」論に対し、「それは実際とは異なるだろう」と挑戦したのが、2007年テンプルトン賞、2008年に京都賞(稲盛財団)、を受賞したカナダ人のチャールズ・テイラーです。


彼のA Secular Age(『世俗の時代』未邦訳)が2007年に出版されて以来、多方面で彼のテーゼと分析が議論されています。

(このブログとは直接関連させていませんが)既に「ツイッター(@yamakoete)」でご紹介した、

です。

《無神論》

(合理主義的、科学主義的知識人にとっては常識とも言える)「一方的な世俗化」論は無神論者の観測でもあったのですが、予想に反して宗教と言う迷妄がなかなか表舞台から退場しないのに業を煮やしている無神論者の一人が、英国の代表的無神論者のリチャード・ドーキンス氏です。


しかしこんなに平然と「宗教は幻想(ハルシネーション)だ。自分はそんなものには用はない。」と言い切っているドーキンス氏ですが、 最近の新聞記事では
“I would describe myself as a secular Christian in the same sense as secular Jews have a feeling for nostalgia and ceremonies,” said Dawkins. (リンク)
とのこと。
「世俗のキリスト者」とは、「一方的な世俗化」論者にとっては論理矛盾のはずですが・・・。

そこが宗教・信仰の面白いところです。
そんな簡単に割り切れません。

※ A Secular Age(『世俗の時代』)は多分どこかが邦訳を進めているのではないかと思います。

2014年5月24日土曜日

ダイアリー 2014/5/24

一つの記事にするまでには至らない/纏まらないものを「メモ代わり」に投稿するため『ダイアリー』と言うカテゴリーを作ります。


どんな宗教集団もその歴史的、社会的文脈との関わりの中で生きていきます。

社会が変動すれぱ、その中にいる宗教集団も影響を受けます。

逆に変化する社会に対して、自己の価値観や視点から、社会へ働きかける、ということもあります。

「宗教と社会」をテーマにするこのブログは、両方の視点(「消極的」対「積極的」、「受動的」対「能動的」)から問題、課題を取り上げて行きたいと思います。

《最近読んでいる本》
戦後のドイツの指導的哲学者・知識人、ユルゲン・ハーバーマスの
An Awareness of What is Missing: Faith and Reason in a Post-secular Age
ユルゲン・ハーバーマスは、フランクフルト学派のクリティカル理論から「近代化の諸相」を鋭く総合的に分析して現代の問題の所在とその処方箋を提示する人物です。

小嶋がGraduate Theological Union博士課程(宗教と社会、現在は倫理学と社会理論)で研鑽していた時(1980年代前半)は、ハーバーマスは「(一方的)世俗化」論を前提にして議論していたので、どうやって宗教の位置を彼の分析に繋ぎ止めるか苦心したことを覚えている。

しかしこの本を読むと1985年頃から、ハーバーマスは次第にグローバル化する現代社会における宗教の役割は無視できないこと認め、むしろ如何に『市民社会・公共圏』への参加を設定するか議論を深める方向に舵を取った。その過程をこの本から垣間見ることができる。

所謂、カルトの扱いについて 
知人の関連する組織に「新天地」と名乗る団体が施設使用交渉にやってきたそうだ。
すぐ調べたら、どうもカルトっぽい団体らしきことが判明、即お断りしたそうだ。
週刊文春WEB記事

日本ではキリスト教界が特定キリスト教異端団体を名指しで、「○○団体とは一切関係ありません」式に「お断り」対応で済ましてきているが、そのようなやり方は最早「ほおかむり」なのではなかろうか。

一般啓蒙のためにはもっと積極的な情報開拓・提示が必要なのではなかろうか。

かといって「○○ウォッチ」式の監視機構みたいなのも危険を煽るだけのセンセーショナリズムに堕す可能性もあるから、難しいなー。

などと言っておれないが・・・。 
将来的にはこのサイトでも小さな窓口を設定できればいいが。
 
《『よそ者』の効用》
規制宗教団体が伸び悩んでいることはよく囁かれる。

大半の当事者たる宗教団体は、模様眺めだったり、諦観だったりしがちだが、一方で何とか現状を打破しようと戦略を練り、仕掛ける「メディア」系の人もいる。

キリスト教・プロテスタント系だと、キリスト新聞社・ミニストリー編集長、まっちゃんこと松谷さんだ。


彼のフェイスブック友達つながりで、仏教界で『よそ者』役を買って出ている方に、堀内克彦さんという方がおられるようだ。
宿坊研究会
代表で、同名ブログを運営されている。


多分いい意味での「お節介」さんだろう。

自分たち集団内の発想では殻を破れないところを、『よそ者』の視点からそれを助けてくれるような方なのだろう。

キリスト教系では、「教会オタク」としてそんな役割を買って出てくれる八木谷涼子さんのような方もおられる。

複雑化する社会、胡散臭く捉えられがちな「宗教団体」にとって願ってもないサポーターのような方々ではないかと思うのだ。

2014年5月19日月曜日

世界の宗教 知っ得 1

今年秋から始めようとしている共同学習会のテーマの一つは
簡単な「世界の宗教」入門
であることをお知らせしました。

世界は「グローバル化」している、とよく言われますが、それほど一本調子でグローバル化しているかと言うとそれほどでも・・・とも言いたい感じです。

と言うのも「ナザレのイエス」を歴史的に学ぼうと思えば、既にガリラヤの村である「ナザレ」でさえすぐ近くには、ローマ皇帝ティベリウスにちなんだ「ティベリア」 と言う町があり、当時のユダヤは政治も文化もギリシャやローマの影響下にありました。

既に「他文化状況」はあったわけです。

でも資本主義がどんどん進み、私たちを取り巻く経済世界が増々グローバルな状況になったのは間違いないと思います。

そんな状況下では「世界の宗教」を一般知識として持っておくことが必要になります。

その一例である実話をちょっとご紹介してみましょう。

Aさんは重電気関連の外資系企業に勤めていました。
度々海外出張で外国に出かけたのですが、中にはイスラム圏の国がありました。

ビザを申請する段になって、自分の宗教を申告する欄がありましたが、「無宗教」と言う選択肢はありませんでした。

イスラム圏の国では「無宗教」と言うカテゴリーはないのですね。
Aさんは事実とは違うと思いながら、「仏教」だか「神道」を選んだようです。

また別なイスラム圏の国に言った時は、帰りの飛行機に乗る時あるお土産を持たされました。
機中で時間があるでしょうから読みなさい、と手渡されたのは「コーラン」だったそうです。

またイスラムの戒律が厳しい国に行った時、こんなことがあったそうです。

イスラムが徹底している国では、外国人や観光客などは居住地区がくっきり分けられているのだそうですが、たまたま入ったスーパーマーケットで、つい一服していたら、かなり離れた場所で誰か大声でがなりたてているのに気がつきました。

Aさんは最初何だろうと事態が飲み込めませんでした。

そうしたら近くにいた外国人の人が「ラマダン最中は外国人でも人前でタバコは禁物だ」と教えてくれたそうです。

Aさんはラマダンの戒律がそこまで厳しいものとは知らず大変驚いたそうです。


イスラム圏の国には戒律の厳しい国とそれほどでもない国など必ずしも一律ではないようです。

しかし日本においてもお相撲さんの中には大砂嵐のようにエジプト出身の関取が出てきました。
彼は場所中もラマダンに則って日中はを断じたようですが、 これも解釈によっては適宜対応の仕方があるようです。

てなわけで私たちの周りにも「世界の宗教 知っ得」状況は段々日常的になりつつあるのかもしれませんよ。

2014年5月15日木曜日

共同学習会への勧誘 1

大分迷ったが諸般の事情で、宗教と社会についての「共同学習会」の開始を2014年秋からに延期することにした。

諸般の事情と言っても別に大したものがあるわけではなく、準備と言うかタイミングの問題なのだが・・・。

共同学習会では当面二つのテーマを用意している。

(1)簡単な「世界の宗教」入門
グローバル化が進む時代、何かのきっかけで「世界の宗教」と不意にコンタクトすることもある。
そんな時に備えて「常識」「一般教養」程度には「世界の宗教」について知っていたいものだ。
特にビジネス界で世界を相手に活躍している人などにはお勧め。

(2)宗教の「今」
現代の文脈で捉える「宗教」の問題やありよう。
もちろん日本を中心に概観していくことになる。
現代(日本)社会に「宗教」はどのような役割を果たしているのか。
あるいは上手くマッチングできずに現代社会から取り残されていないか。

そんな二つの切り口で宗教と社会を扱ってみたい。


次回、先ずは「世界の宗教」を「知っ得」理由について、ある方の実体験を基にレポートする。

2014年5月1日木曜日

中国でキリスト教が勢力拡大している

つい先日、2030年には中国が世界最大のキリスト教国になるのではないか、との推測が記事となってメディアに流れた。

例えばハッフィントン日本
パデュー大学で社会学を研究するフェンガン・ヤン(楊鳳岡)教授は、中国のキリスト教信者数は将来アメリカを抜き、世界最大のキリスト教人口を抱える国になると推測している。
ヤン教授は、イギリス紙・テレグラフの記事でこう述べている。
このフェンガン・ヤン(楊鳳岡)教授と言うのがどうも中国のキリスト教情勢を世界に伝える主要な人物となっているようだ。

ヤン教授は、Religion in China: Survival and Revival under Communist Rule
と言う本(オックスフォード大学出版会、2011年)を著している。



上の記事にもあるように、現在北米パーデュー大学のCenter on Religion and Chinese Society
を通して中国のキリスト教情勢を発信している。

英語圏ジャーナリズムはどうもこのヤン教授に大分依存しているようだ。

共産党政権監視の下、「どのように中国でキリスト教が勢力を伸ばせるのか」、と言う問いにヤン教授は国内に2000店あるマクドナルドが、言わばアウトレットとなっているとこの動画で説明している。



暫くヤン教授から目を離せないだろう。

2014年4月28日月曜日

An Introduction

So let's begin
Religion and Society-A Colloquium@Sugamo

Ours is a learning group which meets, occasionally but regularly, to discuss how religious individuals/peoples/groups/institutions live their faiths in various social settings.

We read books and find reading materials from the Net or we may even do some fieldwork to see how religious individuals/peoples/groups/institutions express their faiths in various social settings.

What we are interested in is the intersection(s) of religion and society.

Those who accept a predominant view of "the secularization thesis" think that religion has a very limited role to play in contemporary society;

They think that organized religions are mostly interested in their own survival by recruiting new members and soliciting money from people;

They think that religion is just superfluous and has no consequence for society at large;

They think that faith is a private matter entertained by people at their leisure time.

We want to challenge such a narrow-minded view.

Religion is very much alive today, not only in the individuals' private lives - in various forms of "spirituality" - but also in the public sphere - sometimes in very violent ways as we know from the terrorist attacks by the Aum-Shinrikyo which were masterminded by its guru Shoko Asahara from the late 1980's to the mid-1990's.

Why Asahara had attempted a series of such horrendous and mind-boggling acts of terrorism is yet unknown.
Scholars and researchers looked for reasons in many directions but no satisfactory answer to put all the pieces together into a whole picture has not been found yet.


But Aum-Shinrikyo is just one example to show that religion is a serious issue even in our secularized society.


We believe that it's essential to put religion back into the picture to understand what's going on in our society.

We do not take religion as a mere factor.

We try to see religion at the root of many of our societal problems, looking at both its goods and ills.

We hope to provide a forum/platform to start exploring the contemporary issues of Religion and Society.

We hope to provide research tools to understand the issues, namely, the Sociology of Religion and Social Ethics, the latter in both Christian and Comparative-Religious standpoints.


開始の挨拶

何をする会?
 学習会です。

 討論を通じて私たちの社会で起こっている「宗教」に関わる問題に接近します。
 ですから「共同」学習会です。

 テキストを選んで読書もしますが、むしろ読んだことから刺激を受けて、私たちの周りにある「宗教」と「社会」が交差する辺りに実際に起こっている事柄について「これどうなってんのかねー」と意見交換しながら理解を深めたいと思っています。

「宗教と社会」とは?
 「宗教」だけだと何か閉鎖集団のようで近寄り難い感じがします。オウム真理教の与えたネガティブな影響は結構大きいようです。
 でも「宗教」に関する関心は依然としてあるのではないでしょうか。

 でも例えば「ユダヤ教」や「キリスト教」を知りたければ、聖書を読めば分かるのでしょうか。
 やはりそれらを信仰して「今」を生きている人たちがどのように考えたり、行動しているのかを知ることが必要ではないでしょうか。

 それって彼らの「心の中」だけのことで、だから外の人には見えないものではないか・・・そう思っている人は多いかもしれません。

 でも、例えば、
 戸別訪問で度々やって来る「エホバの証人(ものみの塔)」はどうでしょう。なぜ彼らはあんなに布教に熱心なのでしょう。

 毎朝駅前を掃除してから教え歌を吟じている「天理教」はどうでしょう。彼らは何をアッピールしようとしているのでしょう。
 そしてあのおそましい「オウム真理教」が起した一連の事件。
 突然武力で国家転覆を図るような暴挙に出て、「宗教」はアブナイという意識を強化した感のある1995年のサリン事件。
 でも本当に「オウム真理教」はただの暴力集団で片付けていいのでしょうか。
 そして「宗教」と言う臭いものに蓋をすればそれで「社会」は安全なのでしょうか。

 私たちが敬遠しがちな「宗教」の影で「スピリチュアル」が(隠れた?)ブーム(らしい)なのはどういうことでしょう。

 と言うわけで、
 「宗教」を信仰している人たちが「社会」とどう関わっているか、
 「無宗教」を装っている現代人に隠れている「スピリチュアル」志向、

そんな幾つもの「社会」と「宗教」の文脈をこつこつと辿りながら、私たちの現在生きている「社会」で棲息している「宗教」をよく観察し、それが私たちにどのような問題を投げかけているのか落ち着いて振り返ってみたいと思います。