2016年12月27日火曜日

The Line Between Religion and Magic

The line between religion and magic, I learned in school, isn’t clear. But many scholars of religion agree that one important division is that while magic is private and crisis-oriented, religion is public and its rituals have no specific, short-term, earthly goals.
As a Catholic, she explores ways to cope with sufferings through prayer and confessions.
 
But throughout this all she ponders over the medal with broken clasp. Fixing it was in the back of her mind but she never did.
 
I guess, the medal represents the magic part in this reflection.
For a while during the long, hot summer I entertained the superstitious idea that things would not look up for my family until I had the clasp of my medal repaired. I did not think I was being punished for breaking it, but I thought I had damaged some trust by doing that, and that I couldn’t fix it until I did some penance by way of cost and trouble.
She, at least, entertained some magical ways of coping, it seems.
 
 
 
Along the way, she's dealing with the question of "losing faith," too.

What does it mean to lose faith for a well-educated Catholic?
 
I guess she's dealing with this question against the backdrop of, possibly, postmodern situation.
In my dream, I wandered down the aisle of some kind of noisy, crowded theater. At the front, where a stage should have been, were confessionals. I went inside one to repent and there was no priest there, only a screen with the face of a priest. I said to him: “Father, I’ve lost my faith.”

All in all, Elizabeth gave us an interesting story to think about. 
 
Thankfully, it's without much heavy theological discussion-though she's capable of doing that way if she so chooses.

Story-telling rather than theologizing. Isn't it more postmodern thing to do?

2016年12月15日木曜日

Religiocification、とは何か?

聞いたことありますか?

Religiocification、は名詞形ですから、動詞であれば、religiocificate、となるでしょうがいずれにしても辞書に登録されていることばではありません。 


「religiocification」をググルと気がつくように、シカゴ大のマーティン・マーティー教授が長年に渡り「アメリカの政治社会(公共圏)に姿を現す“宗教的装い”」現象を叙述するのに用いてきた造語です。

とまあ、そうは書きましたが)まだそんなまとまった風に書けるほど関連記事を読んだわけではありません。 

たまたまマーティー教授が自身の名前を冠した研究所(シカゴ大のMartin Marty Center)が発行するオンライン誌
Sightings (Religion in Public Life)」 
に「2016年を振り返って」まとめている記事、The Religiocification of Hate、(2016年12月12日)に使っていて「ほー、どんなニュアンスなんだろう?」と思ったことがきっかけでこの記事を書こうと思った次第です。

2016年は「憎しみ」の年!!

さて、マーティー教授は「今年は憎しみ(hate)が取り分け目立った年だった」と振り返りながら「憎しみ」の病理的な性格がどのようなメカニズムを持つか二人の識者の洞察を改めて紹介します。
For the second time in this year of hatreds—and the third in 15 months—we quote Else Frenkel-Brunswick, specialist on the “ethnocentric personality,” who observed that in the case of the hater, “even his hate is mobile and can be directed from one object to another”; and John Dewey, who noted that people “do not shoot because targets exist, but they set up targets in order that throwing and shooting may be more effective and significant.”
(1)エルゼ・フレンクル-ブランズウィック・・・憎しみはターゲットを特定しない。憎しみの矛先は浮動的だ。
(2)ジョン・デューイ・・・人々が憎しみを表に出して(誰かに)ぶつけるのは対象となる相手が存在するからではなく、ぶつけることによって憎しみが威力を発揮し意義深くなるからだ。

それからピュー・宗教調査センターの「差別」に関する調査結果の数字を関連させるのですが、
 ・モスレム、82%
 ・黒人、76%
 ・同性愛者、76%
というようになっていくわけですが、特にモスレムへの差別が目立って増加した(前年比12%増)ことを受けて「差別→憎しみ→浮動的」と捉えたみたいです。


さて実は筆者にとっての今回の記事の本題は、人種差別とか宗教に絡んだヘイトではなく、「religiocification」の用い方なのです。

この用語を使う方はマーティー教授の他に余り見られないので個人的専門用語として置けばいいのかもしれませんが、せっかくですからマーティー教授が他のどんな現象にこの語を使っているか簡単に見てみたいと思います。(以下は順不同、ランダムです。)

 (1)政治権力崇拝the worship of political power, the religiocification of patriotism )
 (2)黒人宗教指導者による公民権運動
 (3)米大統領就任式the "religiocification"of the presidential transition)

などです。


以上の使い方から見られるのは、政教分離政策を取る米国において、公共圏での「宗教的」な面がかなり目立つようになる現象を特に「religiocification」を使って注目するのだと思います。

※つまり世俗化するヨーロッパと少し異なり、米国では宗教が公共圏にしっかり付着してくる事象が結構多いんだよ、ということでまさに「サイティングス」の必要を主張しているみたいですね。

ということで締めくくりをしますと、The Religiocification of Hate、とは本来浮動的なヘイトが今年は特に(宗教グループである)モスレムに際立って向かった年だった、ということになるかと思います。

※以下はオマケです。(ある方がドイツ語のSakralisierungに相当する英語を探している、という質問サイトでのやりとりです。それを見るとsanctificationなどに並んでマーティー教授の造語であるreligiocificationを連想したのですね。


[おまけ]

Sakralisierung?

Actually, I have not even found an exact German word, but it is about: to make something "sacred" (= with religion related), i.e. With religion. See also "secular" - "secularization"
I do not know if it would be called in German "sacrification", "sacralization" or "sacralization" or so ...
Is there a word in English (preferably AE)? Or how would the word "tinker"
"Sacrification"? "Sacralization" or something else?

religiocification
M. E. Marty, A Nation of Behavers, Chicago, University of Chicago Press, 1976, p. 14.
"the religiocification of secular humanism"
See also http://books.google.com/books?id=Q8OclZWNgE0C...

Martin E. Marty, "Context", January 1, 2002, Volume 34, Number 1.
Sometimes people from the world of science resist the religiocification of science in
the name of both science and religion. Here Jerome Groopman, M.D. writes on the
“curious coupling of science and religion”:
http://www.contextonline.org/samples/ct020101.pdf

Martin E. Marty, "We're no Holier for our Holy War", New York Times, July 22, 1981
.2,2CHICAGO - One year into its holy war, the United States, is not, and stands small chance of becoming, a holier, happier, more civil, or more moral nation. Last summer, during the election campaign, citizens began to see what in the black movement used to be called the ''religiocification'' of politics. Now, the unpromising language of the crusade or jihad corrupts the news media and disrupts society. It is time for a cease-fire.
http://topics.nytimes.com/top/reference/times... 


This is a neologism that Marty ascribes to Alfred B. Cleage. It probably expresses what you want. A Google search reveals 38 hits, and all of them seem to stem from Martin E. Marty.

Another possibility: desecularization (once you've established what you mean by "secularization")

"sacralization" is a possibility but also refers to ossification of the sacrum. I suffer from partial sacralization because the left side of my sacrum has fused to my pelvis.

"sanctification" refers to the process of making something holy (@#4 one "c" too many) 

2016年11月8日火曜日

宗教と文化(メディア)と政治

聖書が語る(?)ものとして過激に映像化されてきた(sensationalized)のが「携挙(ラプチャー/rapture)」であろう。

映像化されるような元となった「神学」はディスペンセーショナリズムと呼ばれる19世紀の産物である。(簡単な背景説明として、新約聖書学者、ベン・ワイザリントンの動画をご覧ください。)



もとは「米国の保守的キリスト教の一グループの聖書解釈/神学」は、しかしD・L・ムーディーなどのリバイバリズム(19世紀の信仰復興)運動によってどんどん拡がっていった。

この「宗教的うねり」は20世紀に入り政治の世界にも浸透していった。(例として、ビリー・グラハムと歴代大統領、最近の研究としてマシュー・A・サットンの、American Apocalypse: A History of Modern Evangelicalism、がある。)

今や「ビリー・グラハム」といっても「それって誰?」という人の方が多くなってきたかもしれないが、かつて「アメリカの偉大な伝道者」として登場してきた1950年代の頃(冷戦時代の始まりの頃)、
クルセードで盛んに「携挙」の時期を予測していたのですね・・・。

政治の世界だけでなく「映画産業」という文化、エンターテイメント・メディアにもどんどん浸透していった。

「携挙」イメージのヘビー・ユースは「黙示録的終末」のテーマとともにもはやハリウッド(ホラー)映画の常連の観がある。(アポカリプティック映画リストというウィキ項目で1950年代以降のものを十年毎に区切ってリストアップしている。)

「携挙」イメージは、もとはといえば極めて限られたものであったのが、様々なメディアを通して今や一般の人にもかなり「共有される文化」になったといっても過言ではないだろう。

たとえば簡単な動画クリップの「携挙」だとこんな感じになる。



「携挙」はまた格好の悪戯のアイデアともなる。




たまたまこんなことを検索していた時に見つけました。

テレビや映画などの「メディアとキリスト教保守主義・福音主義」や「メディアと保守政治」のつながりを研究している

ヘザー・ヘンダーショットさん。

現在はMIT(マサチューセッツ工科大)の「比較メディア研究」教授をしています。


2004年には『イエスのために世界を揺らす: メディアとキリスト教保守福音主義』という本を書いています。(Shaking The World For Jesus、シカゴ大学出版)



2004年当時はニューヨーク市立大で教えていましたが、世俗メディア(映画)にキリスト教の(サブカルチャー・テーマである)「携挙/アポカリプティック」が浸透するプロセスを分析しようとしています。


個人的には関心があってもこの辺のことを研究対象とするのはとても大変な感じがします。

でも「宗教とメディアの関係」研究はもっと必要でしょうね。

2016年10月28日金曜日

イスラーム主義活道家

日本においてイスラームという宗教はまだまだ未知な部分が多い。

たとえばキリスト教について殆どの人は(キリスト教の)聖書を読めばその大要が分かると思う人は多いかもしれない。

ところが聖書に書いてある「イエスの愛についての教え」と、実際に出会うクリスチャンが全くそんなでないと、どっちを規準にキリスト教を理解するかと云うと・・・やはり「聖書」の規準でしょうね。

その結果「誰々さんはクリスチャンとか言ってるけど、まったくらしくない・・・」とか言うようなことになりかねない。

でも実際にクリスチャンだと自称する人たちの言動や生活から「あー、クリスチャンとはこう言う人たちなんだ」とキリスト教を理解することも十分ありだと思います。


「キリスト教」とか「イスラーム教」とかという《アイデア・理念上の産物》と、それを奉ずる人々の多様なあり方の間のある意味「不一致(discrepancy)」現象は、世界が多文化共生社会になってきてより実際的に悩ましい問題になってきたように思います。


先日(2016年10月21日)、朝日新聞が朝刊で「イスラムと欧米」というインタヴュー記事を掲載しました。

  (※記事についてはもちろん朝日デジタルで読めますが、自分のブログに全文掲載している方もいます。)

インタヴューの相手はタリク・ラマダンさんという「イスラム思想家」です。

聞き手は朝日のGLOBE編集長の国末憲人さん。

ラマダン氏はムスリムが欧米市民社会の一員としてもっと対等の意識で「相互をリスペクトする」必要があり、そのためには「寛容を受ける対象」としてではなく、もっと「ムスリムとしてのアイデンティティー」を主張することが必要だ、との持論のようです。

その一つの例として「ブルキニ」問題が取り上げられたのですが、以下のような応答になっています。
 「これは、アイデンティティーの摩擦ではなく、ムスリムが存在感を示してきたことの証左にすぎません。彼らの存在が可視化され、『我ここにあり』と主張できるようになった。失敗の印でなく、逆にムスリムが欧州社会に溶け込み、成功した証しです」
 ――欧州社会、特にフランスでは、多くのムスリムが世俗的な生活になじんでいます。イスラム教のアイデンティティーを保て、とのあなたの呼びかけは、宗教回帰を目指す試みになりませんか。
 「違います。ムスリムがムスリムであり続けよ、といっているだけです。彼らがイスラム教から離れることを望む人が『イスラム回帰だ』と騒いでいるだけではないでしょうか」

このインタヴュー対して、国末編集長はこちらでも紹介した東大のイスラーム学者・池内恵教授にに「セカンド・オピニオン」を求めています。

そこで彼はブルキニ問題に関してこんなことを言っています。
 ブルキニ問題も、単に服装の自由とのみ見るべきではありません。背景にあるのは「男性は身内の女性を所有し、保護する義務と同時に監督・支配する権利を持つ」というイスラム社会に根強い発想です。イスラム教のもとで、女性と男性は、平等ではありません。ブルキニを着る「自由」は、西欧社会にイスラム的な男女・家族関係を持ち込みます。
 その点をムスリムに指摘すると「イスラムへの差別だ」と反論します。でも、ムスリムとイスラム教をすり替えてはなりません。近代的な人権規範の下では、人としてのムスリム差別は許されませんが、イスラム教の宗教規範を批判する権利は認められるべきです。

この指摘については「なるほど」と思いました。

ライシテとブルキニでも「リベラルな視点」から見る「ブルキニ問題」を取り上げたのですが、「(他)宗教への寛容」として見た場合、「ブルキニを着る自由」は守られるべきであり、ブルキニ着用禁止は「自由への侵害」だ、となります。

欧米の価値観から見たときに「ブルキニ着用の自由」の問題に見えるが、イスラムの価値観から見たときに「ブルキニ着用は女性差別の保護」になる、と云うねじれ構造になるのでしょうね。

なかなか単純ではない。複眼的に捉える必要があることを池内教授の「セカンド・オピニオン」は示していると思います。


欧米社会で「マイノリティー」であるムスリムの自由や権利を擁護すること(欧米のリベラル派が一生懸命になる傾向)と、そのマイノリティー社会の中での女性や少数者の権利を擁護すること(人権活動家たちが一生懸命になること)とを区別して考える必要があることを示したのが以下のオックスフォード大でのディベートです。

左側がラマダン氏で、右側がイラン出身の「前ムスリム」でイスラム社会での少数者の言論の自由抑圧を訴えるマルヤム・ナマージー氏です。


2016年8月25日木曜日

ライシテとブルキニ

ご存知のように多発しているテロの余波か、もともとライシテ政策を取っているところに、夏フランスの幾つかの海岸で「ブルキニ」と呼ばれるイスラームの女性用の全身を覆ったスイムウェアーの女性たちに対してこの着用を禁止する措置が取られているようです。

あまりに過敏な反応のように思えるので、こんなデモもとられています。
そう、カトリックのシスターたちが「宗教的服装」をして海岸で「指導するならしてみなさいよ」と抗議しているのですね。

2016年6月7日火曜日

IAリサーチ・ノート 2016/06/07

<IAリサーチ・ノート>、「イスラム過激派とアポカリプティック思想覚書ノート」ととしては3本目の記事になります。
 ・ノート 1
 ・ノート 2 


この「リサーチ・ノート」を開始するようになった引き金は既に書いたように「2015年」に度重なって起こったイスラム過激派による大テロ事件のインパクトでした。

目下は日本国内で同様かそれに近いような事件は起こっていないにしても、グローバルな視野で見たときに、やはり「私たちの世界」で起こっている出来事として認識していなければならないだろうと思います。

「特定秘密保護法」や「安保法改正」がテロ戦争を念頭においていることを考えますと、「頭と心の構え」においては準備をしていることになっているのですが・・・。

さて今回は記事を一つ、動画を一つ紹介しておきましょう。

(1) Graeme Wood, What ISIS Really Wants (『イスラム国が本当に望んでいるのは』) 

 これはもう一年前の論文ですが、よく引用されているようです。基本的に西側のイスラム国の見方が「非イスラム」的に見て来たのに対して修正を迫るものです。
The reality is that the Islamic State is Islamic. Very Islamic. ...But the religion preached by its most ardent followers derives from coherent and even learned interpretations of Islam.

(2) The Secret History of Isis 
 
 アメリカの公共放送PBSのものでまだ新しい。
 イスラム国の誕生がアメリカの政策的失敗が引き起こしたものとして描いています。

 例のイラク戦争開始を正当化する根拠となった大量破壊兵器の存在に関するパウエル国防長官の国連スピーチでザルカウィの名前を連呼したにも拘らず、この番組の中に収録されたインタヴューではパウエル元長官は殆どその記憶がない。

 その他複数の政府高官の証言等で構成されています。

 番組の中に使われている画像にはかなり凄惨なものがあるので注意を促しています。

 音声だけでよい場合は こちらをどうぞ。

2016年6月6日月曜日

ポスト・セキュラー事始

英語の post-secular を「ポスト世俗」に関連して二つ記事をアップしました。

 ポスト世俗と超越

 市民宗教から公共宗教へ

ポストがつく言葉で、このブログでも取り上げたりしている関連事象には、ポストモダン、ポスト・キリスト教などがあります。

主に欧米圏の「宗教と社会」の事象を取り扱う表現として用いられてきたのですが、グローバリゼーションが進んで、非欧米圏の「宗教と社会」の事象も関心対象になってきたようです。

まだこのブログにとっての重要概念である「世俗化」についても十分な整理をしていませんが、ますます用語整理が面倒になってきています。

ポスト・セキュラーはその中でも比較的新しい用語です。

目下は「ポスト世俗」などと訳していますが、あまり響きが良くないので、「ポスト・セキュラー」とカタカナのままにしておいた方が無難かもしれません。

最近オックスフォード大の(キリスト教)神学の教授でグラハム・ウォード(Graham Ward)の音声クリップを聞く機会があり、結構面白いなと思っています。

そしてたまたま「ポスト・セキュラー」について簡単な解説をしている動画ありましたので、ここにメモしておこうと思いました。


ここで紹介されている本が、フィリップ・ブロンドの Post-Secular Philosophy: Between Philosophy and Theology ですが、それによると「ポスト・セキュラー」という表現が使われ始めたのは1990年代後半とのことです。

しかし文化領域でヨーロッパ圏の哲学が盛んに(キリスト教)神学を取り上げるようになるのはその10年や20年前からです。

英国においては前提となる「セキュラー化」が顕著になるのは1960年代になってからで、それまでは文化圏においてのキリスト教の存在感はまだまだ強かったと言っています。(しかし1960年代以降は急速に存在感は薄くなったとも言っています。)

以下、よろしければどうぞ。