2017年10月17日火曜日

ダイアリー 2017/10/17

ツイッターを見ていたら、イラン留学中の方のツイートが目に留まり・・・。

(遡って)無宗教の日本人が、宗教的な環境で感じる「宗教」についての思いを語るツイートを拾ってみました。

















2017年8月10日木曜日

ハービー・コックス「世俗化」はどうなった?

ハーヴァード大学神学部(Harvard Divinity School)の有名教授ハービー・コックスが同校の創立200年祭の同窓会で「Whatever Happened to Secularization?」について話した。


1965年に『世俗都市The Secular City)』を出して世界中で売れに売れ、一躍有名になった。

それから50年経って「一体『世俗化』はどうなったんだ?」と聴衆に問いかけた。

その時のビデオがこれだ。



全体でも43分のトークは間に聴衆とのQ&Aを挟んだ、かなり砕けた感じのもの。

話題も豊富で面白いと思う。

コックスはバプテストの牧師で話しぶりも結構ミドルクラス的で親しみやすい。

とてもアイヴィーリーグの教授と言う雰囲気ではない。


トークは『世俗都市The Secular City)』出版とその後のエピソードから始まる。

この本はボンヘッファーの獄中書簡にある「非宗教的キリスト教」の問いに呼応して書かれたものであることをまず紹介。


宗教は「公共圏」から撤退し、近代化とともに衰退する・・・という「世俗化説(secularization thesis)」はこの50年で一体どうなったか・・・。

反証として挙げられたのはガンディー、キング牧師、マルコムX、それにフランシス教皇など。
(特に教皇との個人的謁見では去り際に教皇から「祈ってほしい」とリクエストされたことを紹介している。)

「世俗化」は結局世界的な潮流にはならず、ヨーロッパ及び北半球限定のものであった、という見方を強めている。
(メキシコのある神学校訪問でのエピソードで、この世俗化潮流に対抗することを「非神話化」ならぬ「非北半球化」と造語されていたことを紹介している。)

聴衆の質問の中には、北半球では「既成宗教」は数字的にはっきり衰退しているが・・・という問いにも、最後にまとめとして展望していたのは「聖性の分散化(dispersal of the sacred)」だった。

トークの中で、(1967年頃)キング牧師にバーミンガムに来て講演してほしいと頼まれたが、「えっ私が。なぜ」と思って問い返したところ、キング牧師から言われたことが・・・現在の日本の福音派教会も含めて・・・「えっ」という感じのものであった。(自分で聞いてのお楽しみ)


というわけで、全体的に聞きやすいしおすすめです。

2017年8月9日水曜日

自由主義 vs 根本主義

20世紀前半、1925年の『スコープス・トライアル』の前と後で、アメリカ・プロテスタント・キリスト教の様相が大きく変わった、とこの研究分野で第一人者ジョージ・マースデンは言う。


キリスト教保守派が一致団結して『ファンダメンタルズ』を出版したのは1910-1915。この攻勢に対して自由主義陣営は極めて「音なし」だった、とされてきたようです。

今朝このようなツイートがありました。


ちょっと判読しにくいですが、「いや彼らは充分に(ファンダメンタリストたちの攻勢に、『ファンダメンタルズ』に)気づいていた」のが分かる「インサイダー情報」だ、とこの手紙を発見して報告しています。

これに触発されて、おもにアメリカ宗教史家たちの会話が続いています。

興味のある方はどうぞ。

(よりこの論争の焦点や背景を知りたい方には、この記事などどうでしょう・・・。)

2017年7月16日日曜日

ピーター・バーガー(1929-2017)

お世話になった社会学者(故人も含めて)を紹介するということで、つい先ごろ亡くなったピーター・バーガーをトップバッターに選びました。

訃報を聞いての第一声(ツイート)は

バーガーの社会学については、アルフレッド・シュッツの多元リアリティ理論に依拠する・・・ことを少し書いた。(大和郷にある教会ブログ

いずれにしても「意味世界(リアリティ)」が社会的な構築(物)であると言う認識アプローチは様々な応用があるが、特に宗教(信仰)に対して伝統的なアプローチ(神学)とは大分異なる視点を提供する。(伝統的な神学だけをやってきた者には初めはなかなか馴染めないものであろう。)


さて、そのようなアプローチの理論的基礎としてバーガー&ルックマンの『現実の社会的構成』はよく使われ読まれたテキストブックだったと記憶している。


残念ながら筆者の手もとにはその原書が見つからない。(だいぶ昔に片付けてしまったようだ。)

その代わりと言っては何だが宗教社会学応用編となる三つの本と現代人の意識分析の本を書棚からピックアップして並べてみた。


時代的に言うと1970年代の本なので大分昔と言うことになる。

では追悼記事(オビチュアリー)を幾つか選んでリンクを貼っておきます。

上の方から順にお勧めですが、 三番目のアルバート・モラーのは7年前のインタヴュー記事で音声もあります。

それから最後に検索している時に見つけた論文を二つリンクしておきました。(後で時間が出来たら読んでみようかと思っています。)

The Precarious Vision of Peter Berger
by Martin E. Marty
July 3, 2017


(Washington Post)
Peter Berger, sociologist who argued for ongoing relevance of religion, dies at 88

Dr. Berger, born into a Jewish family in Vienna, planned to become a Lutheran minister before turning to academia, where he spent much of his career bridging reason and faith and defying easy labels.

Dr. Berger also made major contributions to the field known as sociology of knowledge, which studies the ways in which society shapes human thought. H is 1966 book “The Social Construction of Reality,” co-written with Thomas Luckmann, was ranked No. 5 on a list of the 20th century’s most influential works of sociology by the International Sociological Association and was translated into more than 20 languages.

Rethinking Secularization: A Conversation with Peter Berger
by Albert Mohler
October 11, 2010


Late scholar Peter Berger admitted 'big mistake' as sociologist of religion
by Christian Century staff
July 7, 2017

Alfred Schutz's Influence on American Sociologists and Sociology
by George Psathas




by Marek Chojnacki

[おまけ]
※ある社会学徒による「社会学者ピーター・バーガー自伝」というブログ記事が見つかりました。

2017年5月14日日曜日

「日本人の無宗教」と科学的原理主義の可能性

こんなツイートがあった。


このツイートから何を引き出すか・・・

 (1)外来の宗教の「神」に対する「違和感」
 (2)創世記は「神話(当方キリスト者だが敢えてこの表現を用いる)」の類なので、わざわざまともにコメントするのもどうかと思う。(故に自身の宗教観・神観を述べる。つまり無神論。)

そんなところだろうか・・・。

ツイート主は恐らく東海大学で西洋美術史を教えておられる金沢百枝教授だと思われるが、このような反応を多くの学生がするのは大学生になる前の教育課程にその理由があるのではないか、と推理され次のようにツイートを続けている。

現場で教える方がなさる類推の方が確かかと思うが、
「日本人は無宗教」というようなことを信じ込まされる
とはいくらか踏み込んだ(飛躍の可能性も含む)類推ではないだろうか。

これはツイートであり推理の過程を大分省略してのものと受け取るべきなのだろうが・・・。


当方には20年前くらい、某専門学校で「キリスト教倫理」のクラスを数年担当した経験しかないので、その時のことを思い出しての印象に過ぎないのだが、「違和感」や「わざわざ感」のような反発めいた感情が生徒たちの感想の背後にあったように思われるのだ。

ただ金沢教授が指摘したような背景があるとすると、逆に筆者としては別な方向である推理が働き始める。

それは殆どの学生が受け入れているだろう「進化論」と原理的に相容れない(と思われている)「創世記」を読まされるのはどういうことか・・・という不満めいた感情である。

おおよそ「宗教的な枠組み」が西洋美術の根底にあることは致し方ない。しかし、だからといって「西洋美術を(よりよく)理解する」ため「ユダヤ・キリスト教創世神話」にまで付き合わされる義理はあるのだろうか・・・。
額面通りだと「(大方の日本人の)無宗教」は「(キリスト教の『神』に敵対的な議論をする)無神論」ではないだろう。

スピリチュアルへの関心を含めると、要は「宗教的なもの、神的なもの」に対して概して鷹揚なのである。(何が宗教であり、神は実在するのか不在なのか、等の議論が低調というかそもそも好まれない。)

米国では文化的キリスト教が進化論と対立した長い歴史があり、現在でも「(いわゆる)キリスト教原理主義」は「進化論」を対立的に捉えている。

ちょうどそれをひっくり返したような形で、鷹揚な無宗教観が支配的な日本では「進化論」はある種の「科学的原理主義」のようなものになっているのではないか。

西洋美術を学ぶ時に必須と思われるユダヤ・キリスト教の古典的ソースである聖書の「創世記」、いやもっと厳密に言えば「創世神話」に対する「違和感」「わざわざ感」の背後にはこの「科学的原理主義」からの反発・反論があり、それが多くの学生たちをして「神というのは人間の想像物で、実際にはいない」という趣旨のことをわざわざ書かせたのではなかろうか。


以上、このツイートに触発されて簡単に思考実験をしてみた。

命中はしていないだろうが、少しかすったくらいはしたかな・・・。


※別の方はこの同じツイートに触発されてもっと高尚な哲学的議論の入口へといざなっているようだ。


2017年4月25日火曜日

(オランダ編) ポストセキュラー神学とは

オランダの(キリスト教)神学教育事情についてはまったく門外漢なので、この投稿内容に関してはあくまで「参考程度」ですね。

「脱・キリスト教(post-Christian)」のヨーロッパにおいて、世俗化(secularization)後、現在の「ポスト・世俗(post-secular)」状況をどう捉えているかについて幾らかでも(英語での発信によって)オランダの事情を知れるのは助かります。


オランダにある「プロテスタント神学大学(機構)」(Protestant Theological University - PThU)という組織については初耳ですが、実はその組織のツイッター(PThU)をしばらく前からフォローしていました。

プロテスタント神学大学ウェブサイトの説明によると
 (1)「キリスト教信仰」と「現在の文化的状況」がどのように「相互交流」しているかを、プロテスタント伝統の視点から研究し、
 (2)特に「宗教と社会・文化」というより広い文脈での分析に注力している。
 (3)同時に「オランダ・プロテスタント教会」(二つの改革派教会と福音ルーテル教会とが2004年に合同してできたオランダ最大のプロテスタント教派) が公認する神学校(牧師の教育訓練校)でもあり、
 (4)急速に変化する時代に柔軟に対応しながら「信仰」「教会」「世界の宗教」に取り組む神学センターを目指している。
のだそうです。


さて以上が簡単な導入説明ですが、今回の投稿のメイン・トピックである「オランダから見るポスト・セキュラー事情」についてうかがい知る一大イベント(4月24日~26日開催)らしいものが「プロテスタント神学大学(機構)」によって主宰されているもようです。

新しい「神探求」、持続する社会に神学はどう応答するか
(New Quests for God: Contributions of Theology to a Resilient Society

会議の趣旨(プログラム)を読んで受ける印象は:
 (1)(「神(々)の復活」)の多様性・多義性
(ニーチェが「神の死」を叫んでから100年が経つ今)「神の復活」は「様々な意味表象」があるようだが、どう分析し、どう理解したらいいのか。
 (2)世界大に見られる現象としてどう捉えるのか
 ポスト・セキュラー欧州の場合に限定せず、世界の諸地域での宗教の復興・再現・再登場(resurgence, re-appearances, re-stage)とも合わせてみた場合
 (3)持続する社会(Resilient Society)の観点から
 これらの宗教復興現象での「神」が「どう語られ」「どう実践され」「どう価値づけられ」れば社会の持続に貢献するのか、
 (4)その評価と判断を神学的反省が課題としている。


教団立の神学校として、プロテスタント神学大学は世俗化の波で信者数・教会数が激減する一方、数々の移民グループをサポートする教会が都市部で活発に宣教奉仕している状況がある、ことを意識しているようです。

One of the main challenges for the PCN is the far-reaching secularization in the Netherlands. A large part of the population no longer counts itself as believer. An increasing number of believers live their faith outside the framework of the church. At the same time the migrant churches are flourishing in and around the urban centres. They are very active in mission and diakonia. This is yet another challenge to the Protestant Church in the Netherlands, to reflect on how to transmit the gospel message to others in a credible and contemporary manner.
WCCメンバーでの教団の紹介文から。)

どのような位置付けになるか詳しいことはよく分かりませんが、教団内の「福音派(Evangelicals)グループ」(The Evangelical Working Alliance within the Protestant Church in the Netherlands)のウェブサイトが、世俗化の波にあるオランダの教会の問題点を挙げながら「マニフェスト」を公表しています。
(2004年の教団合同以前の動きであったのかもしれません。だとすると現在福音派グループは教団内にとどまっているのでしょうか。それとも分離独立したのでしょうか・・・。)

2016年12月27日火曜日

The Line Between Religion and Magic

The line between religion and magic, I learned in school, isn’t clear. But many scholars of religion agree that one important division is that while magic is private and crisis-oriented, religion is public and its rituals have no specific, short-term, earthly goals.
As a Catholic, she explores ways to cope with sufferings through prayer and confessions.
 
But throughout this all she ponders over the medal with broken clasp. Fixing it was in the back of her mind but she never did.
 
I guess, the medal represents the magic part in this reflection.
For a while during the long, hot summer I entertained the superstitious idea that things would not look up for my family until I had the clasp of my medal repaired. I did not think I was being punished for breaking it, but I thought I had damaged some trust by doing that, and that I couldn’t fix it until I did some penance by way of cost and trouble.
She, at least, entertained some magical ways of coping, it seems.
 
 
 
Along the way, she's dealing with the question of "losing faith," too.

What does it mean to lose faith for a well-educated Catholic?
 
I guess she's dealing with this question against the backdrop of, possibly, postmodern situation.
In my dream, I wandered down the aisle of some kind of noisy, crowded theater. At the front, where a stage should have been, were confessionals. I went inside one to repent and there was no priest there, only a screen with the face of a priest. I said to him: “Father, I’ve lost my faith.”

All in all, Elizabeth gave us an interesting story to think about. 
 
Thankfully, it's without much heavy theological discussion-though she's capable of doing that way if she so chooses.

Story-telling rather than theologizing. Isn't it more postmodern thing to do?